#3 香りと音楽。それはいずれも、 “イメージ”からはじまる。
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#3 香りと音楽。それはいずれも、 “イメージ”からはじまる。

みんなのN響アワー|NHK交響楽団

2022年9月、NHK交響楽団は首席指揮者にファビオ・ルイージを迎えます。各国の一流オーケストラに客演するだけでなく、数々のオペラハウスでも実績を重ねるなど、交響曲とオペラの両輪で活躍し、その豊かな経験に裏打ちされた瑞々しい演奏は、世界中のクラシックファンを魅了しています。そして、音楽はもちろんのこと、文化や芸術、ファッションなどさまざまなカルチャーにも深い知見を持っているところもファビオのユニークさのひとつ。どんなものから影響を受け、その豊かな美的感覚を育み、そしてどんな思いで音楽を奏で続けているのか。首席指揮者就任に先駆けて、全4回にわたってファビオが語る「美」の秘密に迫ります。
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3回目は、前回に引き続きスイス・チューリヒを拠点に持つエッセイストの長坂道子さんが聞き手となり、自宅で過ごすファビオへインタビュー。パンデミック禍の暮らしについて話を伺いました。

「香水の部屋」にお邪魔して

ルイージ氏の「香水の部屋」の一角。

音楽と並び、ファビオ・ルイージ氏が深い愛情と熱意を注ぐ分野に「香水」がある。氏のお住まい、チューリヒ湖を望む古い館の一角にしつらえられた「香水の部屋」に一歩足を踏み入れると、そこはまるで化学のラボラトリーのような眺め。壁一面の棚に大小様々のフラスコが並び、フックにはお医者さんのような白衣がかかっている。そして窓際のテーブルにはFL PARFUMSの名を冠した自作の香水のディスプレイ。世界を舞台に活躍するマエストロは、その多忙な日常の合間に、そもそもどのようにして香水の道に足を踏み入れることになったのだろうか。

「香水そのものには昔からずっと興味がありましたが、メトロポリタン歌劇場の仕事でニューヨークに住んでいた時、香水の成り立ちをきちんと理解したい、ひとつ真面目に取り組んでみようではないか、と思いついたのです」

そうして氏はまずは熱心に文献を読み始めた。そんな中、知人を通じ、ゲランの調香師、ティエリー・ヴァッセールさんを紹介され、パリのラボを案内してもらう機会に恵まれた。

「ヴァッセールさんは最初、植物学者だったそうで、植物のことを熟知していらっしゃる。深い感銘を受け、お弟子さんかアシスタントの方で僕に香水造りを教えてくれる方はいらっしゃらないか、とお尋ねしたところ、アシスタントも弟子もいないが、かつての同僚がニューヨークにいるから紹介しよう、と申し出てくださったのです」

80歳でなお現役、IFF香水学校のディレクターを務めるその人にルイージ氏が早速、連絡を取ると、二つ返事で「おいで、おいで」と快諾。

「週に1〜2回、いらっしゃいといってくださいました。で、何をするかというと、ひたすら一緒に匂いを嗅ぐんです。そしてその香りについて語る、嗅ぎわけるための方法について語る。そんな中、僕が自分で試作してみた香水をお見せして、それについてのアドバイスもいただきました。これが足りない、あれが多すぎる、といったような。非常にエキサイティングな経験でした」

そんなふうにして始まった彼の香水探求の道。自ら「秘密のパッション」と呼ぶその道で、好きが高じて、とうとう香水ブランドの立ち上げまで実現してしまった。工業的プロセスは一切使わず、すべて手作り。たくさんの試行錯誤を経て、納得のいく10の香りが誕生した。いずれもユニセックスだという。

FL PARFUMSの名を冠した自作の10の香り。

「ホビーですから」と謙遜されるが、イタリア、スリランカ、インドネシアからオーストラリアまで、世界中から探し求めた自然素材のエッセンスが、氏の「香水の部屋」には300〜400種類くらい常備されており、このインタビューの前日にも、古い試作品から新たな四つの香りを創り出したところだったそう。

指揮者に最も必要な資質とは

さて、ルイージ氏によれば、よい調香師になるために最も重要な資質は「香りの記憶力」。

「匂いを嗅いで、これが少ない、多い、というところまでは行けるのですが、それぞれの素材を頭の中で再生するための記憶となると、これが僕にはできない。長年の訓練によって多数の素材の中からようやく60種類くらいの香りを記憶から呼び起こして脳内に再生できるようになった」そうだが、「プロの優れた調香師はそれが5000くらいはできる」ものなのだという。

そこで一つ、疑問がわく。調香師の資質が「香りの記憶」なのだとしたら、指揮者にも、 やはりある種の突出した記憶力が不可欠なのではないだろうか。

「指揮者として最も必要なのは、イメージする力ですね。記憶力も大切ですが、まず何よりも、この楽譜はどのように響くのかということを頭の中でイメージする力が欠かせません」

テーブルの上にあった楽譜の一つを手に取り、ページを開いて中を見せてくださる。

「たとえばこの曲。僕はこれをまだ一度も振ったことがありません。これを一週間後に振るのですが、まずは楽譜とにらめっこして頭の中で、どういう音楽がどう響くのかを全部、すべての細部に至るまで、再生するわけですね。そのイメージが頭の中にすでにあるからこそ、リハーサルの時に、耳から聞こえる音と、頭の中の音を比べることができる。比べられるから、頭の中の音へと限りなく近づけていくための指示を出すことができる」

また別の楽譜に手をやる。

「こちらはコンテンポラリーの新曲で、そもそも音源が全くない曲です。つまりどう響くのか、実際に聞くことはできない。過去に聞いた経験もない。だから自分の頭の中でまず響かせてみるしかないのです」

脳内で響かせたイメージを、氏は楽譜にメモ書きしていく。指揮者の友人の中には絵が大変上手な人がいて、怒ったライオン、小さなネズミたち、といったふうにビジュアルのメモを記すそうだが、氏の場合は主に言葉でのメモ書きだ。

 「そしてイメージといえば、香水の創作もまた、スタートはイメージなのです」 
  
まだ聞かぬ音のイメージを響かせることが指揮であるとすれば、まだ嗅がぬ香りのイメージを思い浮かべることが、氏にとっては香水の創作過程の最初の一歩。

「新しい香水を作る時、まず、最初にあるイメージを思い浮かべます。それはあるシチュエーションだったり、ある部屋、ある場所だったり、あるいはある人物だったりします。次いで、そこに伴うのがどんな香りだろうかということをイメージするのです」

交響曲が鳴り響き、人間の喜怒哀楽やドラマに寄り添う香りが立ち込める。ルイージ氏の頭の中はなんと豊かで多彩なイメージで溢れかえっていることだろうか。

香りと音楽を繋げる美意識

香水へのパッションと共によく知られること。それは氏のエレガントな装いだ。本番はもちろんのこと、リハーサル時にも必ず蝶ネクタイというのが、長年、変わらぬトレードマーク。

「本番でもないのに、なぜ蝶ネクタイするのか? リスペクトの印としてそうするのです。これは自分にとってとても重要な時間であること、日常を離れた特別な時間なのだということを、オーケストラの皆さんにお見せする。 オーケストラを前にしてそこに立つこと、それは大変光栄で特権的なことです。それを伝えたいのです」

夜、どこか特別なところへ出かける時もそれは同じ。特別な機会だから、それへのリスペクトを表してエレガントでありたいと思う。

あなたが蝶ネクタイで、楽員がジーンズでもそれはオッケーですか、という私の問いに、「全く問題ありません」と笑顔で答えるルイージ氏。

紳士的でありながら、とても打ち解けた雰囲気の中で進むインタビュー。ごく自然な流れで、話は芸術から食べ物のことにまで及ぶ。

「自分では滅多に料理しませんが、食べること、飲むことは大好き」という氏は、けれど「イタリア以外ではイタリア料理を食べません」ときっぱり。
「ただし、唯一の例外を除いては……」

思わず前のめりになる私に、「それは東京」と答えるルイージさん。

「人生で最高のスパゲッティは東京で食べました。日本人はイタリアにイタリア料理を勉強しにきますね。そしてひとたび習ったら、日本人は本当にパーフェクトに実践する。イタリア人みたいに手抜きをしたりしない(笑)」

料理以外の面で、日本についてはどんな印象をお持ちなのだろうか。

「初めて日本に行ったのは1995年。それ以来、コロナ以前までは毎年、少なくとも一回は訪れてきました。日本の人々のことはとても好きです。もちろん私の視点は外国人の視点ですし、言葉もわかりませんが」

とはいえ、勉強熱心なルイージさん、この間に、実はひらがなは全部読めるようになったというから驚く。

「長い歴史を持った日本の文化、そこに外国人が入り込むのはとても難しい、それは確かです。でも人々は非常に礼儀正しいですし、とりわけ魅了されるのは、東京や大阪など、非常に近代的な大都会が一方にあり、摩天楼が集中するエリアがあり、でもそこの角をちょっと曲がると小さな家があって、軒下に草花があり、おばあさんが丁寧に世話をしてたりする、というような側面。この極端なコントラストがとても印象的です」

それに加え、「小さいものを愛でる、自然を愛でる日本の文化にも大変、惹かれる」とおっしゃる。

「僕は意味がわからなくても日本のテレビを見るのが好きです。なぜならニュースの後の天気予報、これが都道府県別に細かく表示されたパネルを見せる。こんなの世界のどこでも見たことありませんから。自然とか季節とともに暮らすことに大変重きが置かれていますね。大都会の真ん中で、自然を感じることはさほどなくても、天気予報のような暮らしの断片に、それが透けて見えるんですね」

日本の友人知人から受け取る手紙の冒頭にはいつも季節の挨拶がある。そんなこともまた、氏が感動する「美しい日本の側面」だ。

世界のどこに身をおいても、常に鋭敏な感受性で物や人を観察し、五感のすべてに訴える美に感応し、好きなこと、興味関心のあることにはとことん深くのめり込んでいく。そんなマエストロの頭の中に今、鳴り響いている音楽は、イメージされている香りはどんなだろうか。軽やかな麻のスーツがふわりと動く瞬間、チューリヒの澄んだ空気の中にほのかに放たれる素敵な香り。その香りと、指揮棒の先に紡がれる音との「連続性」ということを痛感せずにはいられない午後だった。

<聞き手>

text / Michiko Nagasaka photo / Jonas Moser


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