#4 H=History 挑戦を選び、進化してきたN響の歴史。
<教えてくれた人>
N響のはじまりは、今からおよそ100年前。
私がN響に出会ったのは、実は小学校4年生の頃なんです。当時通っていた学校の講堂に「音楽鑑賞教室プログラム」の一環としてオーケストラがやってきたのですが、学区から推察するにそれがN響だった可能性が大きいんですよね。今となっては何を演奏したのか全く記憶にないのですが、そこで初めてオーケストラを生で聴いて「すごい!」と感動したことを覚えています。
その時はすでに「NHK交響楽団」という名前でしたが、もともとN響は「新交響楽団」(新響)として1926年にスタートした楽団です。中心メンバーだった指揮者の近衛秀麿(*1)らは、作曲家で指揮者の山田耕筰(*2)が1925年に設立した「日本交響楽協会(日響)」に在籍していました。山田と袂を分かつような形で始まった新響の歴史に最初のターニングポイントが訪れたのは、それからおよそ10年後。ポーランド生まれの指揮者ジョセフ・ローゼンストック(*3)を専任指揮者として迎えた時です。
1935年に近衛が退任すると、新響はその後任を世界中から探し求めました。ウィリアム・スタインバーグなども候補の一人に挙がっていましたが、最終的にローゼンストックを招聘。彼のハードなトレーニングにより、新響は日本を代表するオーケストラの一つとして躍進することになります。
ちなみに、現在活動している日本のオーケストラのうち、もっとも古い歴史を持つのは東京フィルハーモニー交響楽団(東フィル)と言われています。1911年(明治44年)、名古屋のいとう呉服店(現在の松坂屋)に「いとう呉服店少年音楽隊」が誕生したのが東フィルの始まり。つまり、当初は「アマチュア・オーケストラ」だったわけで、我が国のプロのオーケストラで最も古いのは、私はNHK交響楽団で間違いないと思っています。
「メディア」と結びついたオーケストラ。
実は、新響が立ち上がる前年の1925年にNHK(日本放送協会)の母体である「東京放送局」が設立しています。これが先行してあったことは、新響にとって非常にラッキーでした。なぜなら東京放送局は、「ラジオ」という新しいメディアを設立したものの、そこでどんな番組を放送したらいいのか暗中模索の状態だったからです。
独自のコンテンツがなかなか定着しないなか、ある程度長い曲を演奏することのできるオーケストラは「テスト放送」としてもうってつけの存在。そこで、ちょうど立ち上がったばかりの新響に目をつけ契約を履行しました。1942年に新響は「財団法人日本交響楽団(日響)」と改称したのち、第二次世界大戦終結後の1951年にNHKの支援を受けて「NHK交響楽団(N響)」という名称に。放送局と結びついたことは、N響にとって他の国内オーケストラよりも発展する上で有利だったのは間違いないでしょう。
1960年に「世界一周演奏旅行」を開催。
N響がその名を世界に知らしめたのは、1960年9月1日から開催されたNHK放送開始35周年記念「世界一周演奏旅行」です。まずはインドからスタートしたこの公演は、その後ソ連を巡りヨーロッパを経由したのちアメリカへ。たった2ヶ月で24都市を回るという、今の労働条件では考えられないプロジェクトでしたが、その模様をイギリスでは公共放送BBCが報じるなど世界中で大きな話題を集めました。
その時に指揮者を務めた一人、外山雄三が書き下ろしたオリジナル曲《管弦楽のためのラプソディ》は、〈信濃追分〉や〈八木節〉などの旋律をモチーフにしており、N響だけでなく日本のオーケストラが海外公演をする時に必ずといっていいほどアンコール曲として取り上げられています。この時のメンバーには、外山の他に岩城宏之と、現在サントリーホールの館長を務めるチェロの堤剛、ピアノの松浦豊明、園田高弘、そして当時16歳だったピアノの中村紘子もいました。
続いてのターニングポイントは、ウォルフガング・サヴァリッシュ(*4)が名誉指揮者に就任した1967年です。サヴァリッシュが最初に来日したのが1964年11月。東京オリンピックが開催された年ですが、当時オリンピックはスポーツだけでなく芸術振興も重要視されていました。そこでN響は、ドイツ出身で新進気鋭のサヴァリッシュに着目しました。以降、彼は毎年のように来日するようになり、1967年にロヴロ・フォン・マタチッチ、ヨーゼフ・カイルベルトらとともに名誉指揮者に選ばれたのです。オットマール・スウィトナー(1973年)やホルスト・シュタイン(1975年)ら、綺羅星のような指揮者がN響にやってくるようになったのも、サヴァリッシュがN響を育てたからでしょう。
「ドイツ的なスタイル」からの飛躍。
ところでN響は、ドイツで学んだ近衛を中心に発足し、その後ローゼンストック、サヴァリッシュと主にドイツ出身の指揮者を招聘してきました。そのため音の構築も、低い音から高い音へと積み上げていく非常にドイツ的なスタイルです。それを大きく変えたのが、スイス出身でフランス音楽に精通したシャルル・デュトワ。1996年に常任指揮者、そして1998年にN響はじまって以来初めての「音楽監督」のポストにデュトワが就いたことにより、N響のレパートリーは一気に広がりました。
1970年にNHKに就職した私は、1987年から1990年までN響に出向し演奏企画の役員の下で働いていました。N響がデュトワを呼ぼうとしていることを耳にしたのも、ちょうどその頃。最初にN響で指揮したのはストラヴィンスキーの《春の祭典》だったと思いますが、これまでのN響とはまた違う、「立ち上がりの速いサウンド」だったことを鮮烈に覚えています。もちろん、それまでとは全く違う演奏スタイルには戸惑いましたし「N響にデュトワは無理だろう」と思ったことも正直ありました。しかし、N響ファンからの評判は上々で、それも彼がのちに音楽監督となった大きな理由の一つだったのではないでしょうか。
トップクラスの指揮者たちと歩んできた、N響の進化の歴史。
2004年にはウラディーミル・アシュケナージが音楽監督、2015年にはパーヴォ・ヤルヴィが首席指揮者としてそれぞれ招聘され、2022年9月からはファビオ・ルイージが首席指揮者に就任します。振り返ると指揮者の肩書には、「音楽監督」「常任指揮者」「首席指揮者」といろいろありますが、「オーケストラを引っ張っていく責任指揮者」という意味では、ここで紹介した人たちは皆同じような役割を担ってきたといえるでしょう。
ローゼンストックに始まり、今度のルイージまで、N響は世界のトップクラスの指揮者を招聘し、彼らの要求に応えられる楽団として進化してきました。今後もそうあり続けると思いますし、そのためにも常にシーンの動向をウォッチして、「これぞ」という指揮者をいち早く抜擢することが大切でしょう。N響にはこれからも「日本を代表するオーケストラ」として、他の楽団と切磋琢磨しながら日本の文化レベル向上に貢献していってもらいたいと思います。
text / Takanori Kuroda