#1 コンサートホールでこそ、音楽はもっとも光り輝く。
友情と信頼を築いた、N響との20年間。
―初めてN響と共演された時のことを教えてください。
ファビオ・ルイージ:初めてN響の指揮台に立ったのは、20年前の2001年でしょうか。私はまだ若手の指揮者で、東京のNHK交響楽団との初共演に臨むにあたり、当然ながらとても光栄で、胸が高鳴る思いでした。極めてすばらしい伝統を誇るオーケストラであることも知っていましたから。何より、このオーケストラとブルックナーの《交響曲第7番》で、つまり同オーケストラの卓越したドイツ系レパートリーの内の1曲を指揮してデビューできたことは、私にとって大きな喜びで、素晴らしい感動をもたらしてくれました。
そもそもN響は、その専門性と偉大な音楽性において、ずっと私にとっての手本であり続けていたマエストロ ウォルフガング・サヴァリッシュが名誉指揮者に就任していたこともあり、ドイツ系の指揮者と非常に関係が深いですよね。N響で幾度となく演奏されてきた《交響曲第7番》を指揮した時、さまざまな指揮者によって伝えられてきた作品の意図や響きを、しっかり踏襲しながら演奏していることがわかったのです。特に、響きと様式の水準は並外れたもので、豊富な経験を確実なものにしてきたのだと思います。その時、N響とは、作品を熟知した確かな感性を持つオーケストラだということを、実感することができた演奏でした。
それからも度々共演を重ねる中で、私とN響は、ある種友情を育むように、互いに信頼する関係になっていったと思っています。初演から今日までの約20年間は、私にとってオーケストラが何を提供できるか、そしてオーケストラにとってもまた私が何を提示できるかを知るための期間でした。その間、N響の指揮台には次々と後継者が登壇してさらに豊富な作品の演奏を経験したわけですが、私も同様に他のオーケストラの指揮をしていますので、お互いレパートリーの幅が広がっていきました。そのことは、N響と私との関係にとっても自然とプラスに働いていましたね。
共に名曲を探求し、興味深い旅へと船を漕ぎ出したい。
―2022年9月にはN響の首席指揮者に就任されますが、どんなことを楽しみにされていますか?
今からN響と掘り下げていきたい名曲がたくさん思い浮かぶのです。私が次期首席指揮者に選ばれたということは、ドイツの作品を熟知したN響と、私の音楽的テイストや得意とする分野が偉大なドイツ・ロマン派や後期ロマン派のレパートリーだということをご存知で、そのコラボレーションに期待が込められているということを感じます。当然ながら、N響の真に素晴らしい伝統的なレパートリーとなっている、指揮者サヴァリッシュ、スウィトナー、ブロムシュテットの築いた名曲は演奏したいです。つまり、ブルックナーやブラームス、ベートーヴェン、マーラーなどですね。それから、ローベルト・シューマンやメンデルスゾーンの交響曲も、非常に優れた作品なのですが、演奏されることが少ないので探究したいです。それから、私が興味を惹かれている作曲家のフランツ・シュミットの交響曲もぜひN響と探求したい曲のひとつ。
もちろん、私の希望だけでなく、オーケストラ側のレパートリーも、双方共に拡充していくのは間違いありません。そして、一緒に素晴らしく興味深い旅へと漕ぎ出したいです。その旅は、音楽家として、また人間としても、とても意義深いものとなることでしょう。
ー長く第一線で活躍されているマエストロですが、優れた指揮者であり、音楽家であり続けるためにはどんなことが必要だと考えていますか?
私としては、指揮者として、また音楽家として、交響曲とオペラの両分野で活動することが重要だと考えます。経験という面で、劇場での仕事はとても大事な経験の場であり、交響楽団との仕事から得られるものも大きいです。ただ、とりわけ音楽的な面では、ジュゼッペ・ヴェルディやリヒャルト・ワーグナーのように、事実上交響曲の作曲はせずに、時代を画する存在となった作曲家たちがいます。一方で、ヨハネス・ブラームス、グスタフ・マーラー、アントン・ブルックナーのように、オペラを作曲したことがないまま、様式上の一時代を築いた作曲家たちもいるのです。
従って、音楽家として完璧であるためには、両分野での経験を積むことが重要です。自分自身について言うならば、私はジュゼッペ・ヴェルディやリヒャルト・ワーグナーの音楽の深奥を究めることなしには生きていけませんし、アントン・ブルックナーやヨハネス・ブラームスのような作曲家について理解を深め、自ら体験することなしには生きていけません。
指揮者の仕事は、とても風変わりだと私は思っています。というのも、作曲家が言いたいことを記された事象として素で受け止めるのではなく、その背後にあるものを理解しなければなりません。先ずは我々指揮者が理解し、オーケストラにそれを伝えることで、聴衆へと伝えていくのです。これは、必ずしも容易ではない大変な作業ですが、N響のように経験と特別な感性を持つオーケストラがいると、指揮者にとって楽な仕事となるのです。
音楽は、あらゆる隔たりを超える、
特別なコミュニケーション手段である。
―改めてマエストロは、「音楽」という芸術の美しさについてどのようにお考えでしょうか。
音楽は、あらゆる国境、あらゆる隔たりを超え、さらには言葉の力さえも超えていきます。と言うのも、音楽によれば、言葉では時に表現しきれない感情や思いも表現することができるから。全ての人間を歩み寄らせ得る特別なコミュニケーション手段なのです。そして音楽とは、どのような形で生み出されようとも、どのように広まろうとも、常に美しく価値あるもの。よって、テクノロジーも、音楽が大衆に浸透するのを容易にしたという点で、非常に大きな役割を果たしたことになります。
一方で、我々にとって極めて重要となるのは、音楽の社会的側面。すなわち、音楽家たちと、聴衆が共に集い合うことです。というのも、我々音楽家が提供するものは、自分たち自身に向けられたものではないからです。確かに、提供することへの喜びも我々の内にはありますが、あくまでも我々に耳を傾けてくれる人たちのために供与するのであって、一緒になって聴き、出逢ったり、触れ合ったりできる人がいて、テクノロジー機材など介さない直接的な相互体験を共にできることは、とても素晴らしく、心が満たされて大変喜ばしいことです。
それゆえ、オーケストラ、演奏者、指揮者、聴衆がホールで一堂に会する実際のコンサートには、音楽的な重要性を超えた特別な意味があります。それは人間的価値であり、私たちが人間であるということの重要な意義なのです。