#2 文化に避難所を求めた時代—マーラーをめぐるウィーン文化。|柏木博
世紀末ウィーン
現在では、作曲家として名高いグスタフ・マーラー(1860-1910)が指揮者としてウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の芸術監督に就任したのは、1897年のこと。翌年にはウィーン・フィルの指揮者にも就任し、世紀末、世紀転換期の「音楽の都」に主導的存在として君臨しました。
ウィーンは、音楽のみならず美術あるいは思想の領域でも、華やかな表現を生み出しました。世紀末ウィーンの精神史をテーマにした名著『世紀末ウィーン』(安井琢磨訳)で、カール・E・ショースキーは、オーストリアのブルジョワジーは、フランスやイギリスのそれとは異なっていたと述べています。
オーストリアでは、新興階級のブルジョワジーが、独占的権力を手にすることができず、貴族との一体化を追い求めることになります。それがいつまでも残ってしまいます。ドイツの貴族が道徳的、哲学的、科学的であったのに対して、オーストリアのそれは感覚的、唯美的だったとショースキーは述べています。
「ウィーンのブルジョワたちがはじめは貴族への同化の代用品として芸術の殿堂を支援したとすれば、終わりには彼らは、ますますおぞましくなる政治的現実という不快な世界からの避難所を、隠れ家を、この殿堂の中に見出(みいだ)したのだ」とショースキーは語っています。上層のミドル・クラスの人々が、唯美的、感覚的世界に避難していった時代がマーラーの活動した時代であったということです。
こうした時代状況の中で、グスタフ・クリムトがリーダーとなった近代美術の分離派運動が出てきます。あるいは、芸術的反逆者ともいうべきオスカー・ココシュカ、またウィーン工房をつくりオーストリア版のアール・ヌーヴォーともいうべきデザインを実践したヨーゼフ・ホフマンといった人々が登場します。また、20世紀の思想・哲学に大きな影響を与えた精神分析学のフロイトも同時代の人でした。フロイトは、こうした文化の中で、人間の精神に目を向け、無意識ということを発見します。マーラーは、こうした他ジャンルの人物たちとも交流を持っていました。
ネットワーカー、アルマ・マーラー
ところで、マーラーは、1902年、42歳の時に当時23歳だったアルマ・シンドラーと結婚します。アルマも作曲をしていたのですが、マーラーにそれをやめさせられたといわれています。したがって、マーラーとの生活がアルマにとって幸福なものであったかどうかわかりません。しかし、アルマは、ある意味でネットワーカーだったといえるかもしれません。マーラーは、アルマをとおしてクリムトやシェーンベルクを知ります。アルマはマーラーと結婚する以前、クリムトとの関係があったとされています。
マーラーは、自分とは異なる表現を実践した若いシェーンベルクを支援し続けました。無調主義そして12音による作曲によって、シェーンベルクは、西洋音楽における階層的な調性秩序の枠組を壊します。その音楽的可能性に、マーラーはどこかで期待する気持ちがあったのでしょう。音楽における階層的な秩序は、美術における遠近法、それにかかわる陰影法あるいは色彩調和の秩序と同じ文化的秩序でした。ココシュカたちは、それを否定して新たな表現を生み出していきます。後に、シェーンベルクは、自作の劇作品の舞台装置をココシュカに担当させて映画化することを考えました。
1910年、マーラーは神経症に悩み、フロイトの精神分析治療を受けています。翌年、50年の生涯を閉じます。
一方、妻のアルマは1910年、チロルのサナトリウムで建築家のヴァルター・グロピウスと出会います。アルマは31歳、グロピウスは27歳。1911年、マーラーが亡くなると、アルマはココシュカと関係を結びます。けれども、彼女は1915年、グロピウスとベルリンで再会し、結婚します。グロピウスは、1919年、近代美術・デザインに多大な影響を与えた美術学校バウハウスの初代校長になります。ここには、クレーやカンディンスキーが参加しました。バウハウスでは基礎教育が重要な役割をはたしますが、それを担当したヨハネス・イッテンをグロピウスに紹介したのは、アルマでした。
マーラーをめぐるウィーンの文化は、20世紀につながっていくのです。
text / Hiroshi Kashiwagi
(本記事はN響ホームページに掲載されていた2015年「カレイドスコープ」第30回からの転載です)