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#1 カーニヴァルに託すものー「ハレとケ」の対比とその型。|長坂道子

聴くだけではなく、楽曲が生まれた背景や楽曲にまつわる歴史や文化を知ることもクラシック音楽の楽しみ方のひとつ。「カレイドスコープ 名曲を織りなす物語」では、定期公演で演奏される楽曲を、誕生秘話や作曲家のエピソード、モチーフになった風習などを切り口に、さまざまな視点で紐解いていきます。

第1回は、ドヴォルザーク作曲の《序曲「謝肉祭」作品92》から派生して、スイス在住のエッセイスト長坂道子さんが、ヨーロッパのカーニヴァルに込められた意味について綴ります。

日本固有ではない「ハレとケ」

柳田国男が「ハレとケ」ということを言った時、そこで彼がイメージしていたのは、祭りや伝統行事、そしてそれに対する「日常」。2つの異なる時間の対比だった。その彼がフィールドワークの主な場とした東北地方のお祭りを一度でも体験したならば、厳しい自然環境のもと、寡黙に勤勉に、貧困と背中合わせに先祖代々、暮らしを営んできた彼の地の人々の、ハレの場におけるドラスティックな変貌(へんぼう)ぶりに、なるほど人は驚かずにはいられないだろう。

20代後半からずっと日本の外で暮らしてきて、日本、それも東北地方ともなると、はるか彼方の遠景になってしまっていたのが、2011年の震災直後、七夕祭りの仙台、ねぶた祭りの青森、竿燈祭りの秋田といった土地が、急に至近距離に迫ってきたことに、まずは私自身、大いに驚き、次いで、安全な遠い場所にいる自分に対する罪悪感のような感情が沸き起こってきたものだった。

そしてそうした罪悪感の中でふと、思い出したのだ。「ハレとケ」は決して日本固有のものではない、ということを。

およそ文化と名のつくところには、必ず「ハレとケ」がある。世界各地に住まい、旅してきた半生を振り返ってみるにつけ、私が見知ったさまざまな文化圏、宗教圏、言語圏には、それぞれに固有のハレとケがあって、それは歴史に裏打ちされた「型」や「習わし」というものを伴っているのだということを痛感する。

ヴェネツィアのカーニヴァル

ヴェネツィアのカーニヴァルを初めて間近に見たのは、そんな外地暮らしのごく初期の頃だった。運河が縦横に走るあの町のいたるところにお面屋さんのスタンドが並び、まだ人の顔に乗る前の静かなお面たちが運河沿いに勢揃いするさまは、すでに「ハレの夜明け前」の気配に満ち満ちていた。

そもそもお面という様式それ自体が、幾層にも呪術的、宗教的、そしてセクシャルなものを内包している。カーニヴァル前夜に浮かれる町で、その喧噪(けんそう)と対照的なお面たちの無言の妖艶(ようえん)に、若い私は圧倒され、なにやら自分のコントロールの及ばない妖しい誘惑や情感の激震が、心身の奥深いところで疼(うず)くのを感じずにはいられなかった。

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カーニヴァル(謝肉祭)というのは、カトリックの伝統で、復活祭に先立つ46日間(四旬節)が、間もなく始まりますよ、という、まさに「夜明け前」、いや、「日没前」的なお祭りのこと。キリストが十字架の刑にかけられ、その3日後に復活したのが春の訪れのさなかの日曜日。復活の日曜というのは、キリスト教徒にとってはクリスマスなど吹き飛んでしまうほど、最大究極の悦びの日なのだが、そこにいたるまでにはキリストの受難の日々があることを、だからこそ彼らは、絶対に忘れてはいけない、と自らに戒(いまし)めてきた。キリストの苦しみに寄り添い、それを分かち合うために、自らも肉を断ち、放埒(ほうらつ)を慎み、節制につとめる、という決まり事をつくったのだ。

そしてカーニヴァルとは、そうした肉断ちの四旬節が始まる直前に、たらふく飲んで食べて乱痴気騒ぎをしちゃいましょう、ということ。明日からダイエットに入ろうと決意している人が、「今日が最後だから」と、大好物のケーキやチョコレートを前日にほおばる心理、光景と、それは根本的には同じことなのだ。

カーニヴァルの最終日のことを、フランス語ではマルディ・グラ(脂の火曜日)、ドイツ語ではファスナハト(断食前夜)という。翌水曜日からは、いよいよヴェジタリアンの節制がはじまる。心置きなくその「切り替え」ができるようにと、人々は仮面をつけ(アイデンティティを葬り)、祭り仕様の衣をまとい(コスプレに興じ)、町を練り歩いて(祇園祭の山鉾巡行に通じる気分になって)、ハレに身を心を投じるのである。

カーニヴァルの切なさ

ハレとケの対比は、ケの部分が暗く抑圧されたものであればあるほど強烈なものとなる。人間の根源的なところにおそらくは人類共通に潜んでいるであろう「自己解放の欲求」という視線でカーニヴァルを眺めてみる。すると、そのはしゃいだお祭り騒ぎが急に切ない様相を帯びてくるものだ。スイスのバーゼルでも、フランスのニースでも、もちろん有名なヴェネツィアでも、表面上のスタイルの違いはあれど、切なさという通奏低音はぴたりと共通している。

古来、戯曲や音楽、詩歌や絵画にカーニヴァルをテーマにしたものが数多く見られるのは、そうした人間共通の切なさの部分が、創作者の魂になにか訴えかけるものがあるからであろう。いや、訴えかけるなどという次元を超え、いてもたってもいられない焦燥感のようなものをかき立てられるのかもしれない。

明日をも知れぬ我が身。退屈で凡庸な毎日。それぞれにかかえる苦悩や哀しみ……。

派手な舞台や華やかな音響、キャンバス上の極彩色の向こうに潜む通奏低音に五感を解き放ったときに、鑑賞者も傍観者もツーリストでさえもまた、ハレの場に身を連ねる特権に浴する。そうしてある種の「力」を得て、また明日からしばらくの間、ひと頑張りすることができる。

ヨーロッパに長く暮らし、順当に齢を重ね、ようやくこの頃、カーニヴァルの通奏低音が少し、聞き取れるようになってきた気がする。20代のヴェネツィアで言葉にできずに直感したことを、今、後追いする形で噛みしめているのである。

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オススメ・コンサート
■第1954回 定期公演 池袋Aプログラム
東京芸術劇場コンサートホール
指揮:クリストフ・エッシェンバッハ
フルート:スタティス・カラパノス
ドヴォルザーク / 序曲「謝肉祭」作品92
モーツァルト / フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313
ベートーヴェン / 交響曲 第7番 イ長調 作品92
2022年4月9日(土)開演6:00pm
2022年4月10日(日)開演2:00pm

text / Michiko Nagasaka

(本記事はN響ホームページに掲載されていた「カレイドスコープ」第26回からの転載です。)

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