#1 神の存在に触れられる名曲プレイリスト。|伊藤亮太郎(N響コンサートマスター)
教養と知識がなくてもクラシック音楽は楽しめる。
5歳からヴァイオリンを始め、大人になった今はオーケストラのコンサートマスター。そんな僕にとって、クラシック音楽はあまりにも身近な存在です。それこそ、プライベートで音楽を聴くときは、9割9分はクラシック音楽です。なぜそんなに魅了されているのかと言ったら、名曲を聴いていると神の存在に触れられるから。偉大な作曲家たちによって創作され、それが200〜300年経った今でも愛されている。構成も編成も演奏も人間技とは思えない素晴らしい楽曲ばかりで、神様が残してくれたと感じずにはいられません。クラシック音楽は教養や知識がないと楽しめない? 僕はそんなことはないと思います。クラシック音楽こそ、人間の喜怒哀楽がダイレクトに表現されているので、前情報がなくたって直感的に楽しめるし、感情も大いに揺さぶられます。幼い頃の僕がそうでしたから。
「神の存在に触れられる名曲プレイリスト」(選・伊藤亮太郎)
1. バッハ 《ブランデンブルク協奏曲第6番》
6〜7歳の頃、たまたまラジオから流れてきたのがこの楽曲。聴いた瞬間、「世界にはこんな音楽があるんだ……」と衝撃を受けました。それからは、カセットテープに録音したこの楽曲を朝と夜に何度も何度も聴き、バッハと同時代に活躍していた作曲家の楽曲にもどんどん興味が出てきたりして、見事にクラシック音楽にハマっていきました。今思うと、これがクラシック音楽への目覚め。もっと言うと、「クラシック音楽の道に進め」という神のお導きだったのかも。演奏は、ヴィオラ2本、ヴィオラ・ダ・ガンバ2本、チェロ1本、ヴィオローネ、チェンバロという編成。だから実はヴァイオリンは出てきません。弾くことはできないがゆえ、「神の存在に触れたい」という憧れが増していきます。
2. ブルックナー 《交響曲第7番》
10歳の時に、たまたまチケットをもらって聴きに行った演奏会で出会ったのが、ブルックナーの《交響曲第7番》。当時はブルックナーの“ブ”の字も知らない子どもでしたが、この楽曲を聴いて大感激。その後の1カ月は放心状態が続きました(笑)。こんなにも感銘を受けたのは、その時の80歳を超えたおじいちゃん指揮者の情熱にほだされてしまったから。演奏中、このおじいちゃん指揮者は座って指揮をするのですが、第2楽章に入って盛り上がっていくと、頑張って立ち上がるんです。子ども心に「立った…!」とワクワクしていると、指揮者につられてオーケストラのサウンドの迫力が増していく。こんなにも凄まじいエネルギーを感じたのは、はじめてでした。のちにわかるのですが、この指揮者というのが巨匠のオイゲン・ヨッフム。それこそクラシック音楽界では、神様のような存在です。ブルックナーの楽曲自体もオーケストラの演奏も素晴らしかったのですが、ヨッフムが与えてくれたこの感動的な体験。今でも強烈に心に残っていて、《交響曲第7番》を聴くたびに思い出します。
3. ベートーヴェン 《交響曲第6番「田園」》
「田園」という標題がつけられていますが、自然描写というより、人々の心の機微がよく表れている気がします。ベートーヴェンには珍しく、「田舎に到着したときの晴れやかな気分」「小川のほとりの情景」「田舎の人々の楽しい集い」「雷雨、嵐」「牧歌 嵐のあとの喜ばしい感謝に満ちた気分」と各楽章にも描写的な標題がつけられていますが、なんと言っても嵐が過ぎ去った後の第5楽章の神々しさといったら……。雷が鳴り響く曇天が晴れやかな空に変わり、光が差し込む。最終楽章の第5楽章に入ると、そんな描写が頭に広がり、なんともありがたい気持ちになって祈りを捧げたくなります。この感情を言葉にするのは難しいですが、初日の出や富士山のご来光を見た時に近いのかも。この楽曲を聴くと、生きることに感謝したくなってしまいます。
4. モーツァルト 《交響曲第41番「ジュピター」》
初めて聴いた時の感動がずっと続いていて、人生で最も再生回数が多いと言っていいくらいの名曲中の名曲です。そもそもモーツァルト自身が天才という粋を超え、神に選ばれし存在ですが、なかでも《交響曲第41番「ジュピター」》の第4楽章は神の凄みすら感じます。ひとつのフレーズが繰り返されるフーガ(*1)があり、それがどんどん壮大になっていく。なんというか、ギリシャ神殿のような神聖な建造物が建っていくかのようなスケール感。それでいて軽やかさも感じられる。シンプルな構成かつ普通のオーケストラ編成なのに、これだけの楽曲を創作できるのは神のなせる技。もはや別次元の楽曲だと思います。
<今日の選曲者>
illustration / Yukiko Kata text / Maki Funabashi