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#4 美と音楽〜芸術は鏡。

2022年9月、NHK交響楽団は首席指揮者にファビオ・ルイージを迎えます。各国の一流オーケストラに客演するだけでなく、数々のオペラハウスでも実績を重ねるなど、交響曲とオペラの両輪で活躍し、その豊かな経験に裏打ちされた瑞々しい演奏は、世界中のクラシックファンを魅了しています。そして、音楽はもちろんのこと、文化や芸術、ファッションなどさまざまなカルチャーにも深い知見を持っているところもファビオのユニークさのひとつ。どんなものから影響を受け、その豊かな美的感覚を育み、そしてどんな思いで音楽を奏で続けているのか。首席指揮者就任に先駆けて、全4回にわたってファビオが語る「美」の秘密に迫ります。
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最終回となる今回は、聞き手にスイス在住ジャーナリストの中東生さんを迎え、チューリヒの自宅で過ごすファビオへ、音楽について話を伺いました。

音楽とは、「美」そのものである。

「美」とはバランスだ。
ファビオ・ルイージがそう言うと、全てが腑に落ちる説得力を持つ。

初春の青空の下、輝きを放つチューリッヒ湖畔沿いのルイージ邸は、「美」というテーマに最適の佇まいだ。その歴史的な建物の威厳に気後れする気持ちは、暖色のセーターを着たマエストロが温かく迎え入れてくれた瞬間にかき消され、文化的遺産への忠誠心と彼の人間味をブレンドする「ルイージの美のバランス」が完成した。
 
それは彼の音楽作りと同じだ。解釈という言葉が嫌いだというルイージは作曲者よりも前に出るのではなく、作曲者の意図するものを通訳するようなイメージだと語る。そこに活かされるのはルイージのバランス感覚で、それによって美しい音楽が紡ぎ出され、そこには偉大な作曲家の威厳よりも、ルイージの温かさが感じられるのだ。

今回のインタビューのテーマを伝えると、ルイージは言った。

「『美』は芸術と密接な関係にあり、音楽は『美』そのものですから、私達にとっては重要なテーマなのに、実際に議論されることは少ないので興味深いインタビューになりそうですね! 『美』は物や事柄、人間の有り方を説明するものです。そこで重要なのはバランスです。例えば、そこにあるモダンなテーブルは私の趣味とは違いますが、バランスが整っているので置いてあります。このサボテンも自然が作り上げたバランス感が好きなので、気に入っています。

そして音楽においては、響きの美しさです。それは完結したものではなく、バランス感覚をもって複合的に作り上げていき、最終的に最高のバランスに到達するのです。その到達するまでの過程から『美』が始まっているのです。その完成形も重要ですが、それが完璧なバランスでなくても、最初のリハーサルから修正を重ねて数段上のレベルに達した時に高い美的満足感が得られるのです。NHK交響楽団のようなトップレベルのオーケストラでも、常により良い音楽が作れるように手助けしていくのが私たち指揮者の喜びであり、これで完璧、ということは音楽の場合、ありません。

2001年に初めてN響を振った時、私も若かったし、N響の顔ぶれもその頃からずいぶん変わりました。最初から音楽的にオープンな、とても良いオーケストラだと感じましたが、ここ3、4年で私達の関係がより密接になってきたと思います。私がオーケストラを信頼して、オーケストラも私を信頼してくれているのが分かる、相互で理解し合える友情のような関係で、これも『美』だと思います」

芸術は全て、自分を映す鏡である。

ルイージ氏と話していると指揮者とインタビュアーという関係を超え、人間同士の関係が構築されていると感じる。人間としてバランスが取れているという状態が良い音楽を生み出す秘訣なのだろうか。そしてそのバランスが崩れた時、どう対処するのだろうか。

そんな彼の生の感情に触れたかったので賭けに出て、「嫉妬深いタイプですか」と聞いてみた。意表をつかれたように「それは妻に聞いてみないと……」と冗談を言った後、真摯に答えてくれた。
「はい、自分は嫉妬深いと思い、それを恥じてもいます。嫉妬はネガティヴな感情で、自分の弱点だと思っています。でも、それもバランスの問題でしょう。嫉妬はとても強い感情で、それがあるからこそ素晴らしいとも言えます。《ファルスタッフ》(ヴェルディが作曲した最後のオペラ)でもフォードがそう歌っていますね。

以前は自分にないものを持っている指揮者にも嫉妬していましたが、その感情があったからこそ、そんな自分を心の鏡に映すことで反省し、『自分にないものを持っている人がいる反面、その人は自分が持っているものを持っていない』と思えるようになりました。ここでもバランスが取れると、マイナスな感情も『美』になるのではないでしょうか。男女間の嫉妬でも、バランスを失うと刃傷沙汰になったりしますが(笑)、自分はバランスを保ったために犯罪者にならなくて済んで良かったな、などと思いながら、バランス感を失って刺殺するオペラの世界での表現に役立てられますし(笑)」

「鏡に映す」という表現は、以前マエストロが「音楽は、作曲者だけでなく演奏者も聴衆をも映す鏡で、歳と共に、指揮者としてそれを映し出す責任を感じるようになった」と言っていたことに通じるのだろうか。
「音楽だけでなく、芸術は全て、自分を映す鏡で、それが芸術に与えられた使命なのです。本を読むと、自分が体験したことのない経験をすることができます。オペラや演劇も、自分が生きられない人生を垣間見ることができます。詩は、それらの感情を日常の言葉ではない言い回しで感じることができますし、絵画は言葉にもならないような感覚に浸ることができます。そしてその最たるものが音楽で、例えばチャイコフスキーの交響曲からは、人生において知ることのできないような形而上学的な感覚まで得ることができるのです」

そうか、だからルイージのブルックナーはキリスト教徒ではなくても普遍な「美」を感じられる音楽になっているのか、と思ったが、あっさり否定された。「いや、私自身は神との関係に葛藤があり、ブルックナーの敬虔な音楽に触れると、その関係の難しさがもっと浮き彫りになります。それでもブルックナーが私の最も好きな作曲家の一人であるのは、まずよく言われている構成の美しさ、論理的な音楽、バランス感、そしてこれはあまり認知されていないようなのですが、彼の音楽に歌心があるからです。彼は厳格な北部のキリスト教義ではなく、地中海に近い、陽光が感じられる南部の教義を謳っているのです。

私は日本へ行くと、ほぼ必ず浅草へ行きます。お賽銭を投げたり、水で手を清めたりして、そこで参拝している日本人の、オープンで謙虚な祈りの姿を見るのが好きなのです。そういう日本で、N響とブルックナーを演奏することに意義を感じます。他にはシューマン、ブラームス、マーラー、R.シュトラウス、そしてフランツ・シュミットに焦点を当てていきたいです」

N響とルイージの、「美」の化学反応。

何故シュミットに重点を置くのか、とずっと気になっていた質問を投げてみた。
「故郷のジェノヴァでよく指揮していたミラン・ホルヴァートが好きで、生徒を取っているかと尋ねに行ったところ、オーストリアのグラーツ音楽院で教えていると言われ、留学しました。そこで、当地では大変メジャーだったシュミットの音楽を初めて知りました。グラーツでは毎年オラトリオ《7つの封印の書》が演奏される風習があるのです。この作品は20世紀最高のミサ曲だと思います。グラーツ響の指揮者としてシュミットの作品を初めて振り、ウィーン・トーンキュンストラー時代にも、シューベルトに捧げた《交響曲第3番》を演奏しました。ライプツィッヒ放送響芸術監督時代には、オラトリオも含め体系的に取り上げましたので、N響でも積極的に演奏し、日本の皆様にシュミットをもっと知って頂きたいと思っています。そして日本の現代作曲家も採り上げていく予定です」

このように、関わりを持つ土地との関係を真剣に築いていくのがルイージの姿勢だ。以前「オペラというのは、その国の言語を知らないと完全には理解できないから振らない」と言っていたが、最近ロシアものをよく振るようになったルイージに、言葉の壁をどう解決したのか聞いてみたかった。そして、日本音楽も取り入れるということは、日本ともそこまで深い関係を築こうとしているのだろうか。

「サイトウ・キネン・フェスティバルで《エフゲーニ・オネーギン》を指揮するため、ロシア人の妻からロシア語を習いました。今は日本語を勉強し始めています。前妻との間の次男は日本へ仕事に行く度に連れて行っていたところ日本が大好きになり、日本語を習得したほどです。
 
日本の『美』は自然への敬愛、相互の尊重精神、音楽への愛情だと思います。また東京の光は故郷のジェノヴァの光に似ています。去年新型コロナウイルス感染防止対策の隔離措置が導入され、先ほどお話したシュミットの《交響曲第2番》のコンサートを振ることができずに残念でしたが、その隔離中のホテルからは東京湾まで見渡せて、海に反射した太陽の光りがジェノヴァを思い出させました。海に近く、港のある街という共通の光なのだと思います。これからどんどん日本の『美』に近付けるのが楽しみです」

インタビュー・撮影のためにルイージ邸で過ごした2時間の至福感は、その後もずっと心に刻まれている。丁度、素晴らしい音楽会の余韻が、日常生活を幸福感で綾どってくれるように……。調香師としても活躍するルイージが創り上げる上品な香水のように、N響の「美」とルイージの音楽性を絶妙なバランスで化学反応させていく時代を聴き逃したくない。


text / Shinobu Naka photo / Marco Blessano(マルコ・ブレッサーノ)


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