N響が渋谷に帰ってくる。|かの香織
あらゆる文化が芽吹きつづける街。
そのカルチャーを育む人々のぬくもり。
時は1970年代。一面に広がる農地に降り積もった雪。小さな東北の町の土蔵の酒蔵(*1)。築200年くらいは経っているのだろう。生まれた家だというのによくわからない。忘れられない厳冬。吐く息は白く、銀鼠色の空高くに響く白鳥の声。そんな自然音だらけの江戸時代さながらの暮らし。納屋に転がっていた古ぼけたスピーカーを休憩中の酒蔵のおじさんに直してもらい、ラジオからの音楽にそっと周波数を合わせる。音が鳴った途端、二人で顔を見合わせてやった!と機械をのぞきこむ。こんな夢みたいな世界があるなんてと目を輝かせた。蓄音機に首を傾げた黒いタレ耳のあの犬の人間版は、私だ。
その日から上京するまでの約9年間。その古いスピーカーのおかげで耳にジャンルという縛りをかけない、ボーダーレスかつ自由で豊かな音楽環境が手に入った。その時の自分に、高解像度の生配信といった今のテクノロジーを与えたらどんな反応をするのだろうかと、たまに想像が止まらなくなる
1982年。音楽大学への入学を機に東京へ。古い土蔵と白鳥と麦飯一汁一菜の暮らしから一気に未来都市へワープした心境だったが、そこは10代、それなりに順応は早かった。80年代の渋谷・原宿。今のSNSのような役割を担う、趣味や指向に特化したつながり-アート、ファッションのイベントや展覧会、ライブ、コンサートは、ここでしか得られない。当時の大衆音楽とはまた別のムーブメントとして対極化した面白さがあり、この渋谷を拠点になんとも独特な勢いがあった。
私がデビューに至ったクラブ、渋谷区神宮前にあった原宿〈ピテカントロプス・エレクトス〉(*2)。アートの巣窟。1947年パリのサンジェルマン・デ・プレの伝説のクラブ〈タブー〉を彷彿させた。詩人たち-ボリス・ヴィアン、ボーヴォワールやサルトル、コクトー、クリエーターやその卵が集まる文化のアイコンのような場所。時代も風景も都市も異なるが、このピテカンはどこか似ていたと思いを馳せる。
世界でひとつ、東京的、渋谷的、独創的なるものの源泉。地下洞窟のような秘密めいたこの空間(建物〈ビラ・ビアンカ〉は現存する)に、アーティストたちは連日群がっていた。〈ショコラータ〉(*3)というバンドのボーカルとして私がピテカンでライブ・デビューしたのは、当時、〈スネークマンショー〉や東京、パリなどファッションショーの音楽やピテカンのプロデュースを手がけていた桑原茂一氏との出会いからだ。デザイナー、古着屋、写真家、画家、スタイリスト、ヘアメイクアップ・アーティストと一緒になって、古き時代のイタリア映画をモチーフにして生み出されたバンドだ。それは、上京して半年も経たない頃。
酒蔵の土間に正座して連日聴いたバッハのオルガン曲や定番の交響曲、ショパン、ラフマニノフ、それらに並行してなんら境界線も設けずにラジオで聴いていたニューウェーブ・ミュージック。その半年後には、世界中の個性が激しくぶつかり合う最先端シーンをまのあたりにする夢のような場所にいることになった。
日本のモードを牽引するファッション・デザイナーたちは年中このピテカンに集まり、海外からはジャン・ポール・ゴルチエ氏やマーク・ジェイコブス氏に留まらない。世界的なアーティストたち、例えばジョン・ライドン氏やブライアン・フェリー氏が同じテーブルについて何か話していたり、J.M.バスキア氏やキース・ヘリング氏らが何か壁に描いていたり。客はといえば、美大生の山高帽、コルク素材のシャネル風スーツ、エゴン・シーレ的紙製シャツ、バービー人形風ファッション。ここにはとても書ききれない。強烈な交流、経験。私の人生に衝撃的な刻印が打たれ続けた。私だけではない。今活躍する各方面のクリエーターたちの潜在的文化的価値基準は渋谷にあり、と思い巡らす。
都市開発は人肌の温度を伴いにくく、人間味を失いやすい。でもなぜ渋谷はこれほど変化を遂げているにも関わらず、いつもどこかに温かみを感じてしまうのか。それは昔からあらゆる分野において皆で育ててきた文化が強く根づき、ずっとたゆまず呼吸をし続けているからなのではと思う。どんなに道が変わっても、どんなに建物が変わっても。文化という可視化・数値化されない世界を強い気持ちで支え、支えられてきた人との間に連綿と積み上げてきた結果が、今の温度を逃さない仕組みになっているのではないか。だから文化は今もなお芽吹き、素晴らしい新陳代謝をしぶといくらい繰り返しているのだろうと思う。そしてこれからも文化の象徴として、劇的で温度感のある進化は止まることなど決してないのだろうと私は信じる。
酒蔵のラジオで聴いた音楽を、初めてホールで生演奏として聴いた1980年代。実はその場所こそがNHKホールだった。あまりの音の迫力、その深さに心が震えた。隣の人に涙がわからないようにするのに苦労した忘れられない演奏会。渋谷の文化、そして大切な歴史。ささやかな私の、私たちの人生。
NHK交響楽団が渋谷にデビューしたのは1973年。以来80、90年代から2010年代を超えてずっと渋谷のカルチャーとともにあったオーケストラ。1年間、本拠地・渋谷を離れていたこのオーケストラが、NHKホールのリニューアルと同時に、2022年9月、この街に帰ってくる。
さあ、また次なる新しい時代。
おかえりなさい、N響。
さらにきらめく渋谷の文化が始まるのですね。
※本記事は、2022年7月発刊のN響新聞折り込み広告からの転載です。
text / CAOLI CANO